非存在証明書(あるいはその宮殿)

シューダリム・プレデリム

見せびらかす、という行為。美しさ、の使い道。

ただぼうっと生きているとそれだけで日々は過ぎていく。当たり前過ぎてそう感じることすら忘れてしまう。詩を書くのが好きで、誰にも見せたくなかった。書いた詩だけが自分で、それ以外は嘘だったから。詩の中では息ができたから。そこに自分以外の誰もいてほしくなかった。その中に誰もいれたくなかった。大げさに言えばそんな感じで、もっと素直に言えば誰かに見せるのが恥ずかしかった。書いた詩に歌をつけるのが好きだった。メロディにするとまるで詩の中に作り上げた登場人物たちが生き生きと目の前に立ち上るようだった。いつしかそれは癖に、習慣に、趣味になっていた。やめられないままで今日まで生きてきた。

 

自分の詩を一番好きなのは自分だし、他の誰かの評価なんていらなかった。

 

でも、こうやって病んで過ごしていると、日々することだってないし、「ひとつくらい自分にも才能があっていいんじゃないの?」と逆上しながら思ったりもする。ので、詩を公表してみたり、歌を作ってボーカロイドに歌わせてみたり、誰も読まないブログを書いたりしてみている。そうして思い知る。際限なく積み上げられている創作物の底辺で這いつくばる程度の存在でしかない自分を。いや、あえて悪辣な言い方をすれば、お腹を痛めて産んで育てた自分の子らの這いずる姿を、思い知るのである。

当然、少ないけれど反応を貰えることもあって、それはとても嬉しいのだけれど、同時に「あれ、こんなもんなんだ」と正直思ってしまう自分もいたり、分相応だとも思うけれど、それでも、こんなに自分が愛してやまないものがこの程度なのかと再確認するのはやっぱり辛かったり。

こういうことも本当は書きたくない。誰かに見える場所に置く意味も分からない。詩も誰にも見せたくなかったし、歌なんて誰にも聞かせたくなかった。それなら平和で自分だけの閉じた世界だ。でも、それじゃあ行き詰まりなんだろう。

 

自分の死を一番望んでいるのは自分だし、他の誰かの評価に依存しているんだ。

 

見せびらかすという行為が嫌いだった。だって、誰かに見せると自分が漏れ出ていくようで、それは手首を切って血を流しているのとほとんど同じ。ああ、見せるって自傷行為なんだ。そう考えると腑に落ちる。だったら、見せびらかすのが嫌いなんて当たり前か。でも人はそれを交流と呼ぶ。そういう点で確かに僕はずうっと孤独だった。見せびらかさないで、慎ましく生きているようなつもりになっていた。誰とも関わらないことを美徳だとすら思っていた。美しさってなあに?さあさ、ついに私には分からずじまいで、だけどもし、それが分かるのなら、見せびらかすことね。目一杯、うんざりするほど。世界、世界、世界!私はあなたが嫌いです。おやすみ。

タイムマシーンに乗って

眠っているときに夢を見ることがある。周期のようなものが存在していて、夢をよく見る時、そうじゃない時とある。その内容は様々で、現実に起きた嫌な出来事を反芻するようなものから、非現実的で突飛なものもある。子供時代を回想するような夢を見ることもある。不思議なのが、もう十何年も会っていない小中学校の級友たち、普段日常を過ごしている中では全く思い出すことのない、もしかしたら思い出そうとしても思い出すことすらできないかもしれない、そんな人達の姿や仕草、声などが色鮮やかに再現されているのである。醒めてしまえば所詮夢なので、正確に再現されているような気がしているだけかもしれないが、とかく、夢の中では彼らは生きていて、まるでタイムスリップでもしたかのような奇妙な心地になるのである。つまりタイムマシーンは実在しており、この脳の中に埋め込まれており、睡眠時に無意識の底に沈んでいるかのように思っていた意識は遠い過去へと飛ばされており、そこで僕は無邪気だった頃の自分に、あるいは他人に、会えてしまうということだとして。帰ってきた現代との乖離に苦しむだけなのでもう時間旅行はやめてほしいとも思ったり、そのノスタルジーの心地よさに身を委ねてしまいたくもなり、むしろ戻らなくても良いのでは、どうせ現実なんて腐っているのだからとも思ったり。人間は有機物でやはり腐るものらしい。綺麗で純粋だった、とまでは言わなくとも、何かもう少し闊達としたものがあったであろう少年時代の自分は、今よりは腐っていなかっただろう。年齢を重ねて、年輪が増えて、肥大していく自意識には腐敗という言葉が似つかわしい。タイムマシーンに乗るたびにそんなことを思う。どうせ虚しい想いをするだけなので皆さんは乗らないほうが良い。タイムマシーンに乗るたびに、そんな夢を見るたびに、「ああ、夢は過去にあり、今にはない。過去から見た現在は、希望であるべき現在は、当然腐っており、現状、未来はクソだ。未来がクソに思えるのは今がクソだからだ」と。これは独り言で、あの日の彼らには聞こえないものとする。いつだって過去は美しいなら、いつか今日すら美しく思えるかしら。んなわけない。以上で時間旅行の報告を終わりとする。

雷雨

昨日の夜はおびただしい量の雨が降っていて、雷も尋常じゃない勢いで鳴っていた。久々に恐怖を感じるレベルの豪雨だった。精神的にまいっていると音に対して神経が過敏になってしまうたちなので非常に辛かった。ふとノイズキャンセリング機能付きのヘッドホンを持っていることを思い出して、急いで装着してみると効果は予想以上で雷雨による騒音はあっという間に鳴りを潜めた。つい先程まで気を病みそうなくらいにうるさかったのに今ではちょっとした小雨くらいにしか感じられない。その落差に妙な気分になった。見て見ぬ振りをしているような気分になった。いけないことをしているようだった。手にした静寂の中、考えなくてもいいことまで考えてしまう。こうやっていろんなことを無視してきたっけ。こうやって嫌いなものを遠ざけてきたっけ。ずる賢く卑怯に、そのくせ避けきれずに。こんなふうに雑音を何もかも綺麗に消しされたら。でもできない。ああ、できなくてこうなったっけ。こうなったのは誰のせいだっけ。雷みたいに分かりやすく響いていればそうじゃない場所も見つかっただろうか。雨みたいに雲が降らせているのならそうじゃない夜を待てただろうか。言い訳ばかりがうまくなって、理由ばかりが増えていって、寝そべっていると時間ばかりが過ぎていく。こうして何万時間も無駄にしてきたっけ。また同じように時間を無駄にしていたら、いつしか雨は落ち着いていた。こうして騒音をかき消しているといつ落ち着いたかさえ分からない。だから自分には歩き出すタイミングも分からないまま今日まで生きてきたんだろうか。雑音を消しても雑念ばかりが湧いて出るこの頭。憂鬱注意報、雑念警報、過ぎ去る余地もなくアラート。投げ出して寝てしまえばまた同じような朝が来た。何もなかったみたいに。

儀式

結構前の話になるけれど、シン・エヴァを見る前に新劇場版を見返しておこうとプライムビデオで見ていたら、庵野秀明監督の実写映画がおすすめに出てきていたので見た。ラブ&ポップ式日の2本。式日の方が特に自分の好みで、旧劇場版のような内向的な話。誤解を恐れなさ過ぎる形であらすじを言ってしまえば、頭のおかしくなってしまった女とある映画監督のラブストーリーである。その女が儀式のようにやる行為として廃ビルの屋上の淵に数秒立って、自分の生を実感するというのがあった。自分も精神病の端くれの身の上になってからというものの、「死にてえなあ」とかふと思う時があり、そういうときは自殺する妄想をする。それは凄く凄くネガティブで性格の悪い、いかにも根暗な行為だと思っていたのだけれど、捉えようによっては、作中の女のように生を実感するための儀式とも考えられるのではないか。平たく言って自殺は良くないだろう。例えば、少し違うが、同様に良くないこととして万引、自分が万引する場面の妄想を日常的にするような奴はやはり異常者に思えるけれども、現実世界で万引しないのであれば、果たして誰にも気づかれない至極真っ当な人間なのである。自殺の妄想だって、実行しないのであれば自由で、まあそれが頭をよぎる精神状態はとても褒められたものではないけれど、溜飲を下げるための儀式のようなものだと思えば、別にちょっとくらい許してあげてもいいのかなという気になる。もっと言えば、ちょっと胡散臭い話になるけれど、儀式、これをしたから今日も生きられるかもしれないというものを、アスリートのルーティンのような、そういう行為を決めておき、妄想自殺に先回りして実行しておくなどするのは精神衛生上とてもよろしいのではないかという気がしてきた。こういうのは誰もやっていない自分特有のものが良いだろうから、右手で左奥歯を持って薬指と叫びながら足の人差し指を曲げるとか、笑いながら両鼻の穴に小指を突っ込んでは出し、突っ込んでは出し、を数回繰り返した後、急に真顔に戻すとかはどうだろうか。こういうことをやってのける愉快さがこれからの時代、増加する心の病への対策として求められているのかもしれない。

 

感想文とかいうカテゴリを作っておきながら何も書いてねえなあ、と思って書いてみたものの、これは感想文ではない気がして不安でならない。でも深夜の勢いでこのまま上げてしまおう。

梅雨入らない

僕の住む地域ではおおよそ晴れが続いている。聞くところによると梅雨かと思ったらそうじゃなかったらしい。そうじゃなかったのなら仕方がない。そうじゃなかったことなんて世の中に幾らでもある。そうじゃなければいけないのにそうじゃないことすらある。だから梅雨じゃなかったことくらいなんてことない。でもこの先きっと梅雨になれなかった今の代わりに梅雨になる日が来るのだろうけれど、そうじゃないまま通り過ぎてしまうものがある。そうやってゴミになってしまうものが幾つもある。読んでいないままの漫画然り、弾いていないままのギター然り、聞いていない音楽、見れていない映画、腐っていく自分。こう言ったら傲慢だけど、自分にはもっと才能があるべきだった。こんなにも弱くてこんなにも生きづらい自分にはその代わりに才能が与えられるべきだった。弱くて少ない手札の中に、一枚潜んでいるべきだった。たった一枚、自信をもって繰り出せる切り札が配られているべきだった。そうあるべきだったのにそうじゃなかった。それだけのことを今も諦めきれないでいるだけのことだった。だらだらだらだらと降ったり止んだり晴れたり病んだりを繰り返して、言い訳みたいな人生を言い訳のまま終えてしまうのだった。そうじゃなかったのなら仕方ない。そうじゃなかったのだから仕方ないと言え。はい、そうですね。私には何もありませんでした。顧みて、確かにそうだと思いました。でも、じゃあ、いったい、ぜんたい、どうして生きていられるでしょう。誰も答えてくれない。誰も答えなんて持っていない。だって誰もそうじゃないから。誰一人そうじゃないから。そうじゃない人生を生きているだけだから。雨はいつか帳尻のように降るらしい。そんなふうに幸せも降って湧けばいいのに。幸福感知レーダー故障中。修理の予定ナシ。さようなら。

麻雀 天鳳 2級まであげた

休職中、何か気楽にできて体力もそこまで使わず、それでいて脳の体操になるようなことはないかと数日思案した結果、以前ほんの少しだけ勉強したもののしばらく手を付けていなかった麻雀でもやるかということになった。

一応YouTubeなどで簡単に勉強し直してから打ち始めたので自分用のメモと社会貢献・公共の福祉ひいては世界平和のために勉強した内容を簡単に書いておこうと思う。

基本的には以下のチャンネルの初心者向け動画を見て勉強した。

www.youtube.com簡単に言うと初心者は役や点数計算なんて覚えてないで形の作り方だけ覚えて鳴かずにリーチしようみたいな話だったと思う。ちょっと簡単に言い過ぎな気もする。あと基本はヘッドレスの方が待ちが広いとかなんとかで、よくわからんけど迷ったらそうしている。

形だけ覚えて下の2つだけ見ればとりあえず打てるんじゃないかなと思う。

www.youtube.com

www.youtube.comどういうときに鳴くべきかみたいな動画もあってなんだか重要そうな雰囲気だったけどあまり内容が入ってこなかったので明確に役が付きそうだなと自分の知識内でわかるときは適当に鳴いたり鳴かなかったりしている。

 

ということで2ヶ月ほどちまちまやって2級まであがった。正直ほとんど運否天賦で押し上げたようなもので全く上手くなっているという実感はない。未だに自分の手がちょっと込み入ってくるとといったい自分は何の牌を待っているのだろうかと迷子になり、親切にもポンだのチーだのリーチだのシステム側が教えてくれるまま操り人形のように打っている。それでもたまにトップ取れて2級まで上がれるんだから、麻雀ってそこまで身構えてやるようなものじゃないんだなと思う。もちろんいい意味で。

ただ、運良く勝てているときはそれでいいが、手広く待っているのにお目当ての牌を全くツモれず、何巡も連続で上家がその牌を捨て、スマホからチーのお誘いの効果音(キュピッみたいなやつ)が流れるたびに、「鳴くわけねーだろボケが」とストレスがたまるので精神衛生上あまり良くないような気がしてきた。たぶん良くないんだと思う。

何が良くないって初心者目線では麻雀の守備のフェーズがあまり面白くない。なんだかあいつが怪しいから避けて打とうと思案しても、実際のところそれで守れているのかどうかみたいなところはふわふわしていていまいちやりがいに欠ける。散々苦慮して結局ツモられて満貫乗ったときなんてスマホぶん投げてやりたくなる。結局考えようが同じだと攻め一辺倒になって、どんどん運否天賦が加速していくのだろう。そうならないためにも終局後に放銃回避した回数だけ美少女のCGが流れ、手放しに褒めそやすくらいはした方が良いと思う。

攻めに関しては、僕のレベルではガチャガチャを毎順引いているようなもので、すわ麻雀とは無課金でもガチャを引けるソシャゲの先祖だったのかと感嘆しているこの頃である。通りで貧乏暇ありの下宿大学生がどっぷりとハマるわけである。また風のうわさでは世の中には麻雀に課金して楽しんでいる人もいるらしく、聞いた話によるとテンピンとやらは合法らしい。今の所このゲームに課金しようとは思わないが、したらしたで別の怪しい脳汁が出るんだろうなとは容易に想像できる。

まあ朝のワイドショーの今日の占いを見るくらいの気持ちで今後もちまちまやろうかと思う。

精神科

他人と比べて深い思い入れがあったのかと言われるとそこまでではないと思うのだけれど、彼女の自死が思うよりも堪えていたらしい。単に悲しいのもあるが、それだけではなく、きっと自分にないものを持っていると認めていた人が、そうして進んで行くであろうある種の理想にも見える道が、そうでもないよと言われた気がして。じゃあ、このうだつの上がらない今現在の自分はどうなのかと、そしてその未来はどうなんだと、自問自答しながらも日常は続き、せわしなく過ごしていたら体調を崩してしまった。果たして人生で初めて精神科にかかり、仕事を休むこととなった。確かにブログを読み返してみると酷いものだ。明るい話がほとんどないではないか。書いているうちはなんとも思わなかったが、病名が付くと途端に腑に落ちたように思える。とはいえ生来ずっとこんな調子だった気もする。そんなことはどちらでもいいけど。

休み始めてからしばらく経つので今はわりかし調子が良い。のんびりゲームを楽しむくらいの余裕はある。でも、こんな気分でいられるのもゆっくり休んでいるからで、結局その場しのぎでしかないのでは、この根底にある希死念慮に近しい気分をなんとかせねば何も変わらないのでは、と不安に支配される時もあり、でもそれって通院してりゃあなんとかなるようなものなのかね。まあ、それは医者に聞けって話なんだけど。

とにかく自分の本当の精神状態も限界もまるで把握など出来ていないのだと思い知った。これを読んでいる人がどれだけいるかわからないけど、自分で自分にドクターストップをかけるのはおそらく無理で、身体や精神に異常をきたして初めて気づくことになるので、今が辛くて、なんとなく精神病の症状とか検索してみて、なんだか当てはまるような当てはまらないような、でもこれくらいの苦痛はみんな感じてるよなー甘えだなーと思っている人は高確率でやばいので、完全に壊れてしまう前に早めに休むかサボるかバックレるか精神科にかかった方が良いです。

今回のどたばたで休職や精神科に関する先達が残してくれた種々の記録を大いに参考にさせてもらったので、僕も似たような境遇の人のためにそのうち詳細な経緯を書こうと思います。調子の良いときにでも。